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第10話 舩坂 弘 最強伝説

■1920年10月30日 - 2006年2月11日
■日本陸軍の軍人。大盛堂書店代表取締役会長。
■最終階級は軍曹。アンガウルの戦いで活躍した

「不死身の分隊長」と呼ばれる
・米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。

軍医が助からないと判断して自決用の手榴弾を手渡される程の瀕死の重傷。

・ちなみに軍医が来るまでの間、米軍の銃火の中に数時間放置される。

・しかし、日章旗で縛ることで止血し「夜通し這う」ことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には歩けるまでに回復。

・その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、不思議と翌日には回復している。

「生まれつき傷が治りやすい体質」と、本人談。

・鬼神の如き奮戦の記録。

・アンガウルの戦いにて擲弾筒および臼砲にて米兵を200人以上殺傷。

・絶望的な戦況でも、拳銃の3連射で3人の米兵を倒す。

・米兵から鹵獲した短機関銃で3人を一度に倒す。

・左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺。

・その銃剣を「短機関銃」を手にしていた敵兵に投げ、顎部に突き刺して殺す。


腹部に重傷を負ってついに「這うこと」しか出来なくなり、「もはやこれまで」と自決用手榴弾の信管を抜くも不発。

戦友も次々と倒れ部隊壊滅するが、死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと
重傷なのに米軍司令部への単身斬り込み(10000人vs1人)、肉弾自爆を決意する。



・その前に自分の傷口に群がる蛆虫を拳銃の火薬で殺すが、あまりの激痛に失神。半日間死線を彷徨うが後に復活。

・手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って重傷なのに数夜這い続ける

重傷なのに前哨陣地を突破。4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。

ちなみにこの時までの負傷は大小24箇所。

■重傷
・左大腿部裂傷
・左上膊部貫通銃創2箇所
・頭部打撲傷、
・左腹部盲貫銃創

さらに
・右肩捻挫
・右足首脱臼
・火傷
・全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片


でも敵を目の前にして「立ち上がり」、発見した米軍は激しく動揺

手榴弾片手に米軍に向かって全力疾走。

・残念ながら首を銃撃されて昏倒する。もちろん米軍は戦死と判断。

一応は野戦病院に担ぎ込まれ、「これが日本のサムライだけが出来る勇敢な死に様」と評価される。

そんな船坂は3日後に米軍の野戦病院で生き返る。


素早く周囲の医療器具を叩き壊し、駆けつけた鬼より怖いMPに「俺を早く撃ち殺せ!」と無理を言う。

その後も顔面蒼白の米兵を尻目に暴れまわる。

戦地アウンガルにいる米兵の間で「伝説」と化した。

・敵ながら勇気を称えられ「勇敢なる兵士」の名を贈られる。


・数日後、ペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。

船坂の最強伝説はペリリュー島まで伝わっており、要注意人物の筆頭に挙げられる。

瀕死の重傷なのに収容所から抜け出すことに成功。

・この時、極度の栄養失調に加え出血多量により、両目はほとんど見えていない。

・なのに1000メートルも潜んで行って日本兵の遺体から抜き取った火薬によって、米軍弾薬庫を爆破。

爆破後に収容所に戻り、何食わぬ顔で翌朝の点呼に参加。

・もちろん米軍は徹底的な捜査をしたが、弾薬庫が吹き飛んだ原因は判明しなかった。

仕方がないので米軍の公式記録には「原因不明の爆発」と記される。

耐えかねた米側に捕虜収容所を追い出され、各地の捕虜収容所を転々として1946年に無事帰国。

・実家に帰ってきたが、すでに死亡したとされ位牌まであった。

村の人々は幽霊ではないかと噂し、しばらくの間疑いの目で見られる。

個人の戦闘記録としては唯一戦史叢書に載せられている。

戦後は鎮魂の慰霊碑の建立に生涯を掛けながら、「本のデパート・大盛堂書店」の経営する。

毎年アウンガル島で戦友の遺骨収集と慰霊を行う。

遺族を募って慰霊団を組織し、現地参拝に引率。

・さらにパラオ諸島原住民に対して援助を行い、現地と日本の交流開発に尽力

・さらに数年にわたる戦没者の調査と遺族への連絡など精力的に活動。

出版した本の印税などは「世界中の人々に役立ててほしい」と、全額国際赤十字社に寄付。
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Re: タイトルなし

そらさん、コメントありがとうございます!

同感です、スーパー日本人だと思います・・
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